泣けない子供たち
℃過去。(1/21)


「正直、細かいことは覚えていません」 

俺は、確か夕食作りをしていた。
フライパンで何かを炒めていた。

そのとき、母親に呼ばれたんだ。
でも、炒める音で気づかなかったーー。


あの頃の俺はよく母に存在自体を無視されていたから、まさか呼ばれているなんて気づきもしなかった。


気がついたときには母親は分厚い木のまな板を振り上げていた。


「咄嗟に顔を背け避けようとしました。けれど間に合わず、まな板は、俺の耳を直撃しました」
「……」


「耳の不調に、すぐには気づきませんでした。もしかしたら、すぐに聞こえなくなったわけではないかもしれません」

でもその後の俺はそんなことを考える余裕なんてなくて。
ただただ、恐怖心との戦いだった。



耳を澄ませ、少しの音も漏らさぬよう。
辺りを見回し、母親の機嫌を損ねるようなものはないか確認し。
神経を研ぎ澄まし、近くに母親がいないか、背後に人はいないかを注意する。



「その癖は……まだ抜けないのか」
「はい。……いや、やめる気がないのかもしれまけん」


「先生、俺、寝ていても近くの物音覚えているんですよ」
「?」
「例えばテレビをつけたまま寝てしまったとするでしょう」
本当はずっとテレビなんて観せてもらえなかったけれど。

「そうすると、朝起きたとき、寝ている間にやっていた番組のことを覚えているんです」
本当は、母親の連れ込んだ男と母親の会話、嬌声ーー。


「……それ、寝れているのか」
「ええ。じゃないと生きていけないでしょう」
「それは……どういう意味だ。身体のことか、それとも……」
「どちらもですよ。寝ないと体が持たないし、寝ている間に殺されるかもしれない。そんなの悲しいでしょう?」




本当は、いつも殺されたいと願っていたけれど。

存在を否定され続ける中で芽生えた気持ち。





最期くらいは俺を見て。
俺の最期はーー叶うことなら貴女の手でーー。

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