深海魚は静かに眠る
[マリンスノーが降る夜](2/12)

一人で過ごす金曜日の夜程、辛いものは無い。年の瀬が迫るにつれ、この感情は無視し難い問題になっている。

寂しい。

そうだ、シーラカンスに行こう。彼処なら、きっと温かだ。今日は律くんも来る。信の足取りは、少し軽くなった。

店に入るとママとキヨちゃんが居た。律くんは既に絵を描き終えていたらしく、ポテトをぱくぱく摘まんでいる。ちなみに、今日は緑のニット帽に、緑のダウンジャケット姿だ。

絵の中の魚は、デメニギス。
透明な頭部の奥には、エメラルドグリーンの眼球が2つ並んでいる。信の一番好きな深海魚だった。

神の悪戯か、はたまた気紛れか。コックピットのようなドーム型の頭部は、魚というより潜水艦を思わせる。生物でありながら人工物のように無機質で洗練されたフォルム。

デメニギスの背後には雪が降っていた。通常なら有り得ない光景だが、信は驚かない。

「マリンスノーだ。」

堆積したプランクトンの死骸が、まるで雪のように深海に降り積もる。

ああ、なんて美しく幻想的な光景だろうか。信は絵を見ながら、涙が出そうになるのを堪えた。

深海にも美しいものはあるのだ。ここは死の世界などではない。過酷な環境に耐え抜き生き延びた者だけが住める世界。

「律くん、これはデメニギスだよね。僕に、くれませんか。」

出来るだけ、ゆっくりはっきりと話した。律くんは初めて顔を上げ、信を一瞬仰ぎ見た。ほんの一瞬。

ああ、なんて綺麗な鳶色の瞳だろう。さらさらと色素の薄い髪に、高い鼻梁、形のいい唇。美術品のような完璧さだ。

こくん。

小さく頷いて、彼は画用紙を信にずいと差し出す。

信はありがとう、ありがとうと何度も何度も呟いた。

「初めて見たわ。律くんがあたしとキヨちゃん以外の人に絵をあげるの。」

ママは驚きを隠せないらしい。

「必ず大切にするよ。」

信の背後でカウベルが鳴り、律くんのお母さんが入ってきたことを報せる。

「今晩は。」
「こ、今晩は。」
信は声を掛けられ、慌てて返事をした。

「律が、貴方に?」
信が持っていた絵を見て気づいたらしい。

「はい。欲しいって言ってみたら、律くんがくれました。俺、好きなんです。デメニギス。」

「深海魚、お好きなんですね。」
「はい。律くんも好きですよね。」
「ええ。律がここの店に来たきっかけも、実は深海魚なんです。」


律くんは近くの特別支援学校にバスで通っている。お母さんはいつもバス停まで送迎しているのだが、帰り道の途中、郵便局に用事を思い出し寄ることにした。

いつもの道とはほんの少し外れた通りの郵便局に寄って、数分目を離した。長椅子に座っていた筈の律くんは、忽然と姿を消していた。

お母さんは表に飛び出し、必死になって律くんを捜すが、中々見付からない。暫く辺りをうろうろするが、何の手掛かりもなく時間は無情にも過ぎ去っていく。

何処かでパニックになっていないか、危ない目に遭っていないか。賑やかな所が嫌いな律なら、狭くて静かな所に隠れているのかもしれない。

そうなったらもう、手立てはない。

半ば泣きそうになりながら律くんを捜していると、きりりとした黒ずくめの中年の女性がビルの1階の店から出てきた。

辺りを見回し何か捜している。律くんを捜すお母さんと目が合う。

彼女はにこりと微笑んで、こう言ったそうだ。

「ここに居ますよ。」

魔法使いにでも会ったのかと思ったわ。そう言って律くんのお母さんは、明るく笑った。



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