ケダモノの妻
[第十章](1/9)



「珍しい名前よね……」



花衣の呟きが聞こえたのは村を出発してからしばらくしてだった。


琥珀と瑠璃に別れの挨拶が出来ないことが心残りだったらしく、花衣は何度も琥珀たちの家を名残惜しそうに見ていたが、珠に感謝の言葉と別れを告げると愛馬に乗って村を出たのだった。


しかし村の入り口はどうやらあの滝一つではないらしく、少し遠回りになるが雨月と花衣は珠に教えてもらったもう一つの抜け道を選んだのだった。


内心、こんな冷え込んだ夜に冷たい水に当たる事が憂鬱だった二人にとってその道は救いの手でもあった。


そして回り込んで再びあの滝の近くに来ると、花衣は少し安堵したような表情で先ほどの言葉を呟いたのだ。


彼女が言っているのは麦(バク)の事だろう。別れ際に慌てて珠が教えてくれたあの薬屋の名前である。
確かにあまり聞かないような名前だ。



「まず会ったら珠さんの事を説明しなければなりませんね。私達のせいで呪いをかけられてしまうなんて可哀想ですもの…」



今度は同意を求めるように花衣はそう言った。
彼女の機嫌はすでに直っているらしい、その声音には特別棘もなかった。



「そうだな。」と、雨月は短く返すと、一度身震いをして真っ暗な森を眺めるのだった。


珠から借りた毛皮は確かに冬が近づいている夜には打って付けの品だったが、それでも衣の隙間から入り込んでくる冷風に時々寒さに震える事がある。
花衣も一回りも二回りも大きい珠の毛皮に包まるようにして愛馬に乗っていた。


女性は寒がりな生き物だと以前東南風から聞いたことがある。もしかしたら花衣も口には出さないが、かなり寒い思いをしているのではないかと雨月は気になり出した。


心配そうに花衣を見つめたその時。花衣が違和感を探るようにして馬を止めた。
雨月も花衣に並んで馬を止める。


初めは何が起きたのか不思議そうに辺りを見ていたが、自分の馬がどこか落ち着きなく足踏みをしていることに気が付いた。


森の奥に何かいる…。


そこで雨月はようやく只ならぬ気配に勘付く。



「花衣…。」



「えぇ。この気配は獣です…。じっとしていれば襲ってこないはず…」



雨月の問いに花衣は声を潜めて答えた。


微かにだが、遠くから何かが草と擦れるような、小枝を踏んで割るような音が聞こえる。徐々にその音が花衣たちの方へ近づくに連れ、二人の緊張も高まってくる。


ザワザワと一際大きい音が聞こえると、二人の正面に可愛らしい、まだ子供の猪が現れた。


親と逸れてしまったのだろうか…、こちらを襲ってくるような気配はない。花衣はホッと息を吐いて安心すると手綱を引いて猪を避け進もうとした。



「なんだ、ただの猪か」



雨月も安心したようにそう口にする。


しかし、いつまで経っても動こうとしない愛馬に花衣は違和感を覚える。
そしてハッと子猪に目を向けた。


目が………、黒いっ!



「違う、角魔の猪よ!」




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