あなたのその唇で
V[ずるい人](1/56)
雪菜さんの家の灯りは点いていた。
雪菜さんが、いる。
そう思っただけで俺の心臓は少し速くなった。
心の準備が必要だ――と、思う。
彼女に会うには、彼女に会うための、準備が必要だ。
俺は雪菜さんが住むアパートを目の前にし、深呼吸をした。
時刻は21時。
人の家に訪ねるにはギリギリな時間だ。
このアパートはエントランスがオートロック式になっていて、部屋の主にしか開けられないようになっている。
雪菜さんの部屋番号を押して“呼出”というボタンを押すと、「ピンポーン」という音が響く。
応答があるまでの時間はやけに長く感じられ、その間にも俺の心臓の加速は止まろうとしない。
『はい』
インターホンから雪菜さんの声が聞こえたが、俺は何も言えなかった。
自分はこんなに情けない奴だったのかと、自分を笑いたくなるくらいだ。
しっかりしろ。
『――あの?』
再度、雪菜さんの声。
「太郎です」
『……タロ、君?』
「いきなりすみません。昼間のこと、謝りたくて」
『……今開けるわ』
心なしか、雪菜さんの声は優しいものだった。
というのは、俺の都合のいい解釈かもしれないが。
だって彼女は、元からが優しい声をしているのだ。
昼間の彼女のあの厳しい声は、俺がそうさせてしまっただけだ。
即座に開いたドアから入り、階段に足をかけた。
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