かすかな望みが叶う頃
[1 伊五二に忍び寄る影(2)](1/1)
 昭和十七年、兵器等の交換任務を命じられ、無事ドイツ占領下フランスのロリアン軍港に入港した伊五二の乗組員は大歓迎のもてなしをうけたのである。盛大なパーティー、高級ホテルでの宿泊。そして下士官全員にまで慰安の為の女性が用意されている位であった。
 ロリアンでの最後の夜、松本軍医は柴田艦長の部屋をたずねた。松本軍医は今回のフランス行きの為、特別に徴兵された医者であり、軍人らしさがまったくない人なつっこい人物であった。
「艦長は観光はしないのですか?いやぁフランスはいい所ですよ。」
 柴田艦長は松本軍医に苦笑いを見せた。
「軍医さん、ワシはもうすぐ還暦だぞ。ゆっくりするのが一番だ。」
 柴田艦長は日本海海戦を迎えていた頃、すでに潜水艦乗りになっていた、いわば第一人者であった。やがて日本が世界から孤立していく中、親米派の彼は閉職へと追い込まれ日米開戦を迎えると予備役にまわされたのであった。そして戦況が悪化への道を進み始めると士官不足となり、彼は軍務に復帰、フランス行きを命じられたのである。
 松本軍医は持参したコーヒーを柴田艦長に差し出した。「このフランスまでの大航海、お見事な航海でしたよ。」 松本軍医はコーヒーをすすりながら言った。
「年の功ってヤツかね。だが…年寄りにはこたえたよ。」
 緑茶の香りをなつかしく思いつつ柴田艦長はコーヒーを飲んだ。
「なごりおしいです。明日もう出港かと思うと。」
―やはり、民間人だな軍医さんは―
 この敵国の海域をくぐりぬけなければならない航海を、松本軍医は旅行のように考えているみたいであった。
「ワシは早く緑茶でも飲みたいものだよ。」
 柴田艦長は微笑みながらカップでかんぱいをして、コーヒーを胃に流し込んだのであった。



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