酸素の正体
[右に黴](1/1)
知っている。
僕は知っている。
右を向けば右にあるものに反応することを知っている。
包丁を見せられた時の反応を知っている。
僕は知っている。
ハンマーで殴った時の反応を知っている。
僕は知っている。
もう全部知った。
これが僕が僕でいる必要がなくなった一番の理由だ。


僕は理性の側だった。
僕は悲しみ方を知っていた。
僕は涙の流し方を知っていた。
僕は感情の揺らぎ方を知っていた。
みんなの真似事をしていた訳じゃない。
僕はみんなと同じように感情を抱き、みんなと同じように涙を流した。

僕は知っていた。
僕は喜び方を知っていた。
笑顔の作り方を知っていた。
みんなの真似事をしていた訳じゃない。
僕はみんなと同じように感情を抱き、みんなと同じように笑顔になった。

僕は知っていた。
僕は僕の嫌がることを知っていた。
僕は僕の悪口を言う奴を良く思わないことを知っていた。
僕は僕の悪口を言う奴に反抗することを知っていた。
僕は知っていた。
僕は僕を知っていた。

祖父が死んだ。
病室で僕は死にそうな祖父に立ち会った。
ドラマや映画のワンシーンみたいに死ぬ直前に僕は祖父の側にいた。
祖父は死ぬ時に笑顔だった。
死ぬ直前に何か言っていた。
家族は皆泣いていた。

恐らくこの時が初めてだっただろう。
泣くべき場面で僕は泣けなかった。

僕は知らなかった。
これが生きるということであると。
僕は知らなかった。
僕はその時知った。
僕は知ってしまった。
僕が僕のまま生きることへの底知れぬ恐怖を知ってしまった。

その後も知っている僕が現れ続けた。
僕は知っている。
もう知っている。
何もせずとも何もかもを知っている。
僕は知っている。

気付いた。僕は死んでいる。

僕は生き返る方法を考えた。
僕は老人の前に割り込んで優先席に座った。
僕は空き缶を燃えるゴミに捨てた。
僕はゴミ拾いのボランティアをしている人間の前でポイ捨てをした。
僕はコンビニの店員を威圧しながら店を出た。

つり革に掴まっていた。
得体の知れない恐怖。
デスメタルみたいな曲調が耳を衝く。
ごめんなさいね、と老人が目の前の席に座る。
そいつに笑顔を向けながらいつもの駅で降りる。
どっかの私立の小学生がこちらに眼差しを向ける。
改札を出たところで、僕はつり革に掴まっていた頃のことを思い出していた。

2才くらいになる子どもの手を離さないように母親が歩いていた。
右を向けば右に反応した。
僕は知っている。


世界の壊し方を、知っている。



fin



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