ESCAPE
08[至愛](12/14)
(epilogue)


 この本は、僕が生まれた頃に書かれている。

 主人公と女性の名前は違うけれど、確かにこれは、父さんと母さんの話だと思う。

 確かに、父さんは僕を愛してくれていた。

 もしかしたら、生まれる前からずっと。

 僕は、母さんの代わりなんかじゃなかったのかもしれない……。

「……なんてね」

 全部、僕の妄想に過ぎない。

 タキさんからの手紙にはいつも、口には出さなくても、父さんは僕に会いたがっていると、ひとこと添えられている。

 本当にそうだろうか。

 父さんは、タキさんと暮らしている今が、幸福なんだと思う。

 タキさんは、父さんの仕事のマネージメントを含む、助手をしている。

 僕が、生まれる前からずっと。

 家政婦だと、勝手に思い込んでいたのは、僕。

 そして、父さんが母さんと出逢うよりも、もっとずっと前から、それ以上の想いをタキさんは父さんへ寄せていたのだと、手紙を貰うたびに感じた。

 そして今も。

 僕はその手紙に、返事を書いたことはない。


 藤野先生は、僕は父さんに束縛されていると言ったけれど、

 本当に束縛されていたのは、父さんの方だった。

 僕と、母さんに。

 その重い枷を外したのだから、もう父さんは何にも囚われることなく、自由になれたんだ。

 今はまだ、そんなに簡単に会いたいという気持ちは起こらない。


 ――『……今、ここを開けたら、私は今度こそお前を……』

 ――閉じ込めてしまう――


 あの時、父さんは、きっとそう言いたかったんだ。

 僕も……このまま逢わないでいる方が良いと思う。

 逢ってしまえば、また見えない鎖が、お互いを雁字搦めにしてしまいそうで怖かった。


「……あ……」

 開いた本のページの上に、桜の花弁が舞い落ちてきた。

 きっと、僕が小学校に入学した時の記念に植えた、庭の桜の花弁。

 幸せだった頃の思い出が、まるで栞の代わりになったような気がして、僕はそのままそっと、本を閉じた。


 *


 駅へと向かう階段の降り口まで、僕は何度も振り返って、思い出に別れを告げた。

 もうきっと、ここに来ることは二度とないから。

 階段をゆっくりと降りていく途中で、携帯が鳴っていることに気付く。

 目の前に広がる街の景色を眺めながら、耳に当てると、変わらない明るい声が聞こえてきた。



- 322 -
前n[*][#]次n
⇒しおり挿入
/326 n
←TOP
HP

▼ESCAPE番外編『かりそめ』

▼『出逢えた幸せ』SS集

⇒作品レビュー
⇒モバスペBook

[編集]

[←戻る]