ESCAPE
08[至愛](11/14)
(epilogue)

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 久しぶりに降り立った懐かしい駅。

 あの頃修復工事をしていた木の温もりのあった駅舎は、ベーカリーやコンビニなどの店舗が入っている小さな駅ビルが出来ていて、もう昔の趣きは感じられない。

 中学へ行く途中に渡っていた、すぐ側の踏み切りも無くなり、いつの間にか高架化されていた。

 駅前にある横断歩道は、前は無かった信号機が誘導音を鳴らしている。

 信号機が点滅する横断歩道を走って渡る。横断歩道を渡って直ぐの小さな路地を入った数メートル先にある、斜面に沿って続く長くて急な石の階段……。

 ずっと先にある女子大の学生が、『心臓破りの階段』と、嘆くのをよく耳にしていたっけ。


 ――良かった。まだちゃんとある。

 古い階段だから、もしかしたら取り壊されたりしているんじゃないかって、少しだけ心配していた。

 
 この階段が好きだった。

 不揃いの幅の石の階段は、あの頃のままだけど、古くなって錆び付いていた手摺が真新しくなっていて、太陽の光で銀色に反射している。

 あれから、もうすぐ6年になる。

 きっと、毎日ここを通っていたら気付かないかもしれないけれど、その間に僕の好きだった景色も少しずつ変わっている。

 あの頃、僕だけが変わってしまったと思ったりしていたけれど、時と共に変わっていくのは、周りも同じ。

 慎矢の真っ直ぐな性格は、今も同じだな……と、あの太陽のような笑顔を思い浮かべて、クスッと一人で笑い声を漏らした。

 彼は、二十歳になってすぐに、自分の意思で洗礼を受けた。

 藤野先生は、今もあの高校で教師をしていて、今年の秋に結婚が決まっている。

 日々、少しずつ、誰しも前へと歩いていく。

 僕は……、

 たくさん食べても、あまり身に付かないけれど、あの頃よりも随分と背が伸びたかな。

 階段の中腹で立ち止まり、振り返ると、僕の好きだった景色が広がっている。

 少し、どこかが違って見えるのは、僕の身長が伸びたせいだけじゃないと思う。

 階段を上り切ると、石垣の上に建つ家が見えてくる。

 高い塀の向こうから見える桜の木が、美しく咲き誇っていた。

 もう、誰も住んでいない、僕の生まれ育った家。

 鈴宮と、書いてあった表札も外されている。

 もう、家の中も何も残っていないそうだ。

 殆どの物は処分したけど、僕の描いたあの絵だけは、父さんのところにあるらしい。

 あれから、タキさんは時々僕に手紙をくれて、父さんのことを教えてくれる。

 売りに出されていたこの家も買い手が付いて、もうすぐ取り壊されて建て替えるということも、タキさんからの手紙で知った。

 だから……、今日はお別れに来たんだ。

 家の向かい側のガードレールに腰をかけて、生まれ育った家を胸の中に焼き付ける。

 写真じゃ残せない、今、僕の目で見える全てを憶えておきたかった。

 鞄の中から、一冊の古い本を取り出して、『至愛』と書かれているタイトルを指でなぞる。

 著者は 鈴宮 武志。

 この本を見つけたのは、偶然入った古本屋だった。

 僕は、父さんが書いた小説を、あまり読んだことがない。

 なぜなら、母さんが亡くなってから、父さんは、雑誌でエッセイの執筆はしていたけど、小説は書けなくなっていた。

 主人公は、憧れていた女性と、禁断の恋に身を焦がす。

 やっと手に入れた時には、恋しい女性は他の男の子供を宿していた。

 それでも男は、愛する人の子供を自分の分身のように想う。

 生まれてきた子供に、『伊織』と、名付けて。



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