ESCAPE
 [ ESCAPE](9/40)
(U)


 ――速水の所へ?

「……どうして」

 どうして今更……そんなことを言うんだ。

「……思い出したんだ……凌なら、僕の欲しいものを全て与えてくれるって……」

 その言葉はぼんやりと、俺に向けてではなく、ただ呟くように紡がれた。

 どこか遠くへ、想いを馳せるように、うっとりとした表情で宙を見詰めて。

「……身体の全てが、凌の中へ同化していくような……何も考えなくても良い、あの世界でずっと浸っていたい」

 ――やっぱり、僕を救ってくれるのは、凌しかいない。

 そう続けて、鈴宮はまたゆっくりと前を向き、ふらふらと寝室から出て行こうとする。

「鈴宮くん!」

 慌てて立ち上がり、ドアノブに手を掛けた彼を、後ろから両肩を掴んで引き寄せた。

「駄目だ、それは違う、それは違うんだよ」

 ――なんてことだ……。 今頃になって、あの夜の感覚を思い出すなんて。

 あの時は、普通の状態じゃなかったと、いくら説明したとしても、今の鈴宮の心には届かない。

「……そうだ、僕はあの時、凌のものになった筈なのに。どうして離れてしまったんだろう」

「駄目だ! 鈴宮くん、手を離しなさい」

 鈴宮は、ドアノブを握った手を離そうとしない。

 しっかりと絡みついた指を、一本一本剥がして、両手を後ろから封じ込むと、鈴宮は腕の中で暴れ出した。

「どうして! 行かせてくれないの。先生じゃ駄目なんだ。僕には凌が……、凌が必要なんだ!」

「違うだろう? 速水くんは君の恋人なのか? 速水くんを愛してるのか?」

 いつもなら、力では敵う筈のない細い身体が、全身で俺を拒絶していた。

 少しでも抱き締める力を弛めたら、鈴宮は本当に外へ飛び出してしまいそうだった。

「……先生には分からない……、僕の気持ちなんて分からない! あの時、凌は優しかったんだ。まるで恋人のように!」

「ああ、分からないね。薬の力を使って、自分の思い通りにしようとした奴の所へもう一度行きたいなんて、愛してもいないのに、快楽だけを求める君のことなんて!」

 どうしようもなく、腹が立つ。どうしようもなく怒りが込み上げる。

 それは誰に向けての怒りなのか。

 卑怯な手段で鈴宮を自分のものにしようとした速水にか。

 虚ろな快楽に身を委ねて、現実から逃げようとする鈴宮になのか。

 それとも、傍にいて、何も出来ない自分になのか。

 暴れる鈴宮を担ぎ、乱暴にベッドに放り投げた。

「――っぅ、」

 ベッドのスプリングに身体がいささか跳ねて、鈴宮は小さく呻き声をあげた。

 突然の俺の行動に、驚愕した瞳で見上げている。

 その瞳を無視して、俺はすかさず、その華奢な身体の上に覆いかぶさって動きを封じ込めた。

 鈴宮が何処にも行かないように。

「――嫌っ、放して! 放せ!」

 こうやって身体ごと上から押さえ付けられたら、どんなに鈴宮が暴れようとも、どうする事も出来ないだろう。

「ばかっ、先生なんか嫌いだっ」

「嫌いで結構だ」



- 279 -
前n[*][#]次n
⇒しおり挿入
/326 n
←TOP
HP

▼ESCAPE番外編『かりそめ』

▼『出逢えた幸せ』SS集

⇒作品?レビュー
⇒モバスペ?Book?

[編集]

[←戻る]