ESCAPE
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(U)




「……行っちゃったね」

 遠く離れていく車を見送りながら、大谷が寂しそうにポツリと漏らした。

「……ああ」

 動き出した車のリアガラスの向こう側で、後ろをふり向いていた伊織の顔の表情も、どんどん小さくなって見えなくなってしまう。

「先生、泣きたかったら泣いていいよ」

 伊織が乗った車はもうとっくに影も形もないのに、まだ大谷は、ずっと向こうの曲がり角に視線を留めたままでいる。

 大谷だけでなく、俺も……そこから目を離せずにいた。

「……何言ってるんだ。泣いてるのは君の方じゃないか」

 漸くチラリと大谷へ視線を移すと、彼は遠くの角を瞬きもせずに見つめていて、その目からは大粒の涙がポロポロと零れていた。

「……伊織、ちゃんと連絡してくるかな……」

「約束は守るって、言ってただろう?」

 泣いている大谷の頭を引き寄せて俺の肩に凭れさせると、彼はそのまま肩先に顔を埋めた。

 シャツの肩が、じわりと熱を持って濡れていく。

「きっと、また直ぐに会えるよ。友達なんだから信じてあげなさい」

 そう言って、泣いている大谷の頭をポンポンと宥めるように軽く叩いた。

 それは、自分にも言い聞かせるように言った言葉だけど、

 でも、俺は……大谷とは違う。

 俺と伊織は、友達じゃなく、教師と生徒だから。

 ずっと、教師と生徒でいい。

 そこから近付くことも、離れることも、きっとない。

 ……だから、大谷のように、また直ぐに会えるなんて期待はしていない。

 教師と生徒の関係は、そういうものだと分かっているから。

 ――いつかまた、偶然にでも会うことが出来たならそれでいい。

 その時、伊織を取り巻く環境が平穏で幸せなら、それでいい。

 そして、またあの笑顔を見せてくれる事を願っている。


 ツツジやサツキを隙間に植えた石垣の上に建つ家へ、視線を巡らせる。

 開いたままの玄関からは、見送る姿も見えない。

 ――あの人は今、どう思っているんだろう。

 愛した妻に瓜二つの血の繋がらない息子を、歪んでしまった愛で束縛してしまっていた父親。

 それでも、心の中では俺なんかには分からない葛藤があったのかもしれない。

 ――いや……、

 俺には、あの人の胸の内なんて到底理解出来ない。

 全部を知らないのに、安易な想像で他人を決めつけてはいけない。

 でも……、

 あの人も……、伊織の幸せを願っていて、いつかまた、あの光が溢れるような笑顔に会いたいと思っていると信じたい。


「……伊織は、心から笑ってたよね?」

 大谷はそう言うと、漸く顔を上げて、泣き濡れた目を手の甲でゴシゴシと擦っている。

「ああ、そうだね」

「キラキラして、まるで天使みたいだったな」

「そうだね」

 大谷の言葉に、自然に口元が綻ぶ。

 そう、光が溢れるようなあの笑顔は、大谷の言う通りかもしれないな。
 

 二階の窓の内側で、レースのカーテンが風に揺れている。

 見えない枷を取り払い、この家から、あの窓から、伊織が飛び立って行った後のように……。


 ――先生に、出会えて良かった……。

 伊織が言ってくれたあの言葉……。

 生徒にそう思ってもらえる事が、俺が教師になった頃の目標だった。


 天使と暮らした短い夏。

 俺は、少しでも、伊織の未来を守ってやることが出来たんだろうか。



 ******



 ――『先生、僕、美大を受験しようと思うんだ』

 伊織がそう言って、俺に相談をしてきたのは、翌年の桜の咲く頃だった。





 第七章ESCAPE
 ――(side fujino)end


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