ESCAPE
 [ ESCAPE](38/40)
(U)


「――いおりーーっ!」

 その時、遠くから伊織を呼ぶ声が聞こえてきた。振り向かなくてもその声の主が誰なのかは分かる。

 首に絡められていた腕がするりと外れ、伊織の身体が俺から離れていく。

 急に風通しの良くなった首周りが、妙に淋しく感じる。

「……慎矢」

 駅から、あの階段を一気に駆け上って来たのだろう。

 大谷は、肩を上下させながら荒い息の下から、「間に……合った」と、苦しそうな声を出す。

「先生が、慎矢に知らせてくれたの?」

「ああ、知らせないと、後で俺が怒られそうな気がしたからね」

 そう応えて、俺は肩を竦めて見せた。

「伊織……、引っ越すって……急に何処へ?」

 大谷には、伊織が家を出る事になり、急だけど今日引っ越すということしか伝えていない。

 伊織は、チラリと俺へ視線を流してから大谷の方へ向き直る。

「ごめん慎矢。急に決まったから、伝えることが出来なかった」

「いや、それはいいんだけど……」

 その時だった。

 近付いてきた一台の車が、三人の立っている手前でゆっくりと停車する。

 俺と伊織は、ほぼ同時に大谷からその車へと視線を移した。

 大谷も、言葉を途中で止めて不思議そうに振り返る。

 運転席のドアが開き、運転手がすかさず後ろへ回り、後部座席のドアを開ける。

「申し訳ありません、遅くなってしまいました」

 後部座席から降りて来た岬さんは、柔らかい物腰でそう言いながら会釈した。

「いえ、俺も来たばかりです」

 そうですか? と、言いながら、岬さんは伊織に歩み寄っていく。

「鈴宮さんはいらっしゃるかな。ご挨拶をしておきたいんだけど」

「書斎にいるよ。中にタキさんがいるから、声を掛けたら呼んでくれると思うけど」

 そう言って、玄関を見遣る伊織と一緒に、岬さんも同じ方向へ視線を移した。

 その時の二人の仕草に俺は……やっぱり似ているな……と、心の中で思う。

「伊織……、あの人……誰?」

 玄関へ入っていく岬さんの後ろ姿を見送りながら、大谷は少し不思議そうに伊織に尋ねている。

「……僕の、父親だよ」

「えっ?」

 伊織の口から、あまりにも自然に出てきた父親という言葉に、大谷は驚きの声を上げた。

「え……え? だって……」

 岬さんが入って行った玄関と伊織を交互に見て、次の言葉がなかなか出てこない。

「あの人が、本当の父親なんだよ」

 驚いている大谷に、伊織はそう言ってふわりと微笑みかける。

「……そうなのか……。でも……」

 と、そこまで言いかけて、何かに気付いたように大谷は言葉を止める。

 真剣で、それでいて優しい眼差しで、伊織に視線を合わせた。

「そっか。伊織にとって、これは一番良い事なんだな」

 大谷は、伊織が何も言っていないのに、納得したようにそう言いながら太陽のように明るい笑顔を見せて、伊織は、それに応えるように、あの光が零れるような笑みを浮かべながら頷いていた。

「俺は、いつでも伊織の味方だからな。悩みとかあったらいつでも連絡してこいよ」

 夏の暑い陽射しの下で、二人の頬はうっすらと紅く染まっている。

 交わした約束は、これは別れなどではなく、きっと新しい始まりなのだと思わせてくれる。

 そう、これは、決して悲しい別れなんかじゃないから。



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