ESCAPE
 [ ESCAPE](33/40)
(U)



 暫く続く沈黙の中で、強くなってきた雨風の窓を打ち付ける音だけが、二人の間に流れていた。

 遠くに雷鳴が小さく聞こえている。

「これからは、もっと広い世界を見ることが出来るんだから、俺なんかに縛られなくても良いんだよ」

 これから君は、少しずつ色んなことを経験して、成長していく。

 相手を信じて、想い、愛 寄り添う。そんな関係の人と巡り合えるように。

「でも、僕はきっと……、もう今以上に誰かを好きになんてならない」

「そんな事はないよ。俺に愛されてるって、分かったんだろ?」

 そう問えば、伊織は少し間を置いて、小さく頷いた。

「じゃあ、大丈夫だよ」

 そう言って、俯いている伊織の頭をくしゃくしゃと掻き混ぜるように撫でた。

「……もう……先生には会えないね」

 そんな風に言われたら、抱きしめたくなってしまう。

「これからも会おうと思えば、いつでも会えるよ。――俺は君の担任だからね。これからもずっと」

 俺は狡い大人だから、そうやって保険をかけておく。

 もしもいつか、また君が傷付いて、その羽根を休めたくなった時は、いつでも帰ってこれるように。

「ずっと、君のお節介な担任でいさせてくれないか」

「……やっぱり……担任としては、責任を負いたくないから、そんな事を言うんだね」

 そう言ってクスッと笑い声を零し、伊織は俺の肩にそっと頭を凭れさせる。

「まあ……、そうだよ」

 俯き加減に、俺の肩に凭れている伊織の表情は、覗き込まなければ見えない。でも、その表情は、見なくても分かるような気がした。

「そろそろ寝よう。明日も早いからね」

 ベッドサイドの灯りを消して、二人で布団に潜り込む。

 並んで寝ているお互いの肩の間は、今までと違い、微妙な隙間が開いている。

「伊織……あの人……岬さんのこと、どう思ってる?」

 突然一緒に住むことになった実の父親のことを、伊織がちゃんと受け入れられるのか、それだけはまだ心配だった。

 伊織は小さく頷いて、

「あの人、前にね……」

 と、鈴宮の家を出る少し前に、岬さんに会った時の事を話し始めた。

 暗くて表情はよく分からないけれど、その声はどこか穏やかで、楽しそうに聞こえる。

「……それでね、僕におじさんの話に付き合ってもらえると嬉しいんだけど。なんて言うんだ」

「それで伊織は何て答えたんだ?」

「……別に構わないけどって、言っておいた」

 そして伊織は、最後にポツリと呟くように付け加える。

「僕……あの人のこと嫌いじゃないよ」

「そうか……」 

 伊織の話しぶりに、きっと大丈夫なんだなと思えて、何だかちょっと胸の奥が暖かい。

 岬さんの言った言葉を思い出しながら、俺は目を閉じた。

 微妙な間隔で寝ている身体の温度が伝わってくる。だけどもう、その身体には触れてはいけないような気がしていた。


 雨風が更に強さを増して、雷鳴が近付いてきている。

「……先生……」

 隣で、伊織が僅かに動く気配がして、スプリングが揺れた。

「どうした? 雷が怖い?」

 うん……。と、頷く小さな声がした途端、稲光がカーテンの隙間から射し込んでくる。

「――あ……」

 短く声を上げ、俺のパジャマの肩を掴む伊織の指。

 その瞬間、俺は腕の中に、震える華奢な身体を閉じ込めていた。

「……先生。やっぱり僕は……」

 腕の中で、伊織は声を詰まらせる。

「やっぱり……僕は、心細くなると、またこうやって先生を利用してしまう」

 小さく肩を震わせながら、不安気に言葉を紡ぐ伊織の背中を、思わずきつく抱きしめてしまう。 

 これくらいの事は、利用してるとは言わないよ。

 君の気持ちをちゃんと分かっているから、信じてる。 

「大丈夫だ……、俺は君を好きだから……」

 と、言った瞬間、伊織の身体の震えが止まった。

 そして、雷鳴が響く中、俺の胸に顔を埋めている伊織の声が聞こえてきた。

 それはまるで、独り言のように。

 ――思い出した……あの時、最後に聞いた母さんの言葉を……と。



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