ESCAPE
05[陽炎](45/48)




 その瞬間、周りの景色が全部消えていく。

 家の壁も、廊下も、玄関も、慎矢も……。

 全部、真っ白に塗られていく。

 この空間には、僕とその人の二人だけしかいない。

 逢いたくて、抱き締められたくて、ずっと待っていたその人しか、もう見えなくてなっていて……


「―― 父さん!」


 僕は吸い寄せられるように駆け出して、裸足のまま玄関のたたきに下りて父さんの胸に飛び込んでいた。

 外から帰ったばかりの父さんの腕の中は、少し汗の匂いがする。 三カ月ぶりの父さんの温もりと匂いだ……。

 背中に回された手が、しっかりと僕を抱き締めてくれて、僕もしっかりと父さんの首に縋り付いていた。


「おかえりなさい、父さん…… 逢いたかった……… 逢いたかった……」


 まるで子供のように、溢れる涙を止めることも忘れて、逢いたかったと繰り返し、宥めるように背中を優しく撫でてくれる腕の中で、僕は全部を委ねるように身体の力を弛ませていった。


「…… 君が、慎矢君か?」


 他の事を考えられなくなっていた僕は、父さんの言った言葉をボンヤリと聞いていた。


 ―― どうして、父さんが慎矢の名前を知ってるんだろう……。


「伊織と仲良くしてくれているそうだね、ありがとう」

「いえ、俺の方こそ…… 留守中に泊まらせてもらったりしていて……」


 慎矢の声に、僕は漸くゆっくりと現実に引き戻されていく。

 父さんに抱き締められたまま、肩越しに振り返ると、さっきと変わらない位置で慎矢は立ち竦んでいた。


「そう…… 家に泊まるくらい、仲良くしてくれていたんだね」


 その声は、何かを含むように低く響いて、その何かに漠然とした恐さを感じた瞬間、父さんの指に顎を捕られ、軽い音を立たせて、触れるだけのキスをされた。


「…… ッ……」


 不意に背中を撫でていた手が脇腹を滑り、腰へと下りていく。

 父さんの手の動きと、それをじっと見つめる視線。


 ―― 慎矢に見られているのに……。


 なのに、身体の奥に火が灯るのを感じてしまう。 その事を慎矢に気付かれたくなかった。

 恐る恐る慎矢に視線を向けてみると、彼の表情が、分かりやすいくらいに変わっていく。


「…… あ、あの…… 俺…… 帰ります」


 僕に目を合わさずに、居た堪れなさそうにそう言って、慎矢は焦りながら、ひっかけるようにして靴を履いた。



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