まわる(1/1)
「ほんと、はぐみちゃんは律に似てるわよね」
おばあちゃんがすっと目を細めて私を見る時、決まってこう呟いた。おばあちゃんに似ているパパと、パパに似ているらしい私。おばあちゃんの大きな瞳で観察されるのは得意じゃない。
それに何よりママを一緒に傷つけている気がして、そわそわと焦り出してしまう。
私の手の甲にあるホクロの位置はママと同じ所にあって、いつかそれをママに見せた。同じだね、と笑い合った記憶を仲間にしたくて手繰り寄せる。でもこういう事をしないと、ママと自分をくっ付けるには値しないみたいで、そんな自分が嫌いだった。
一つ下の創は最近、暦おじさんに仕草も口調もそっくりだ。
でも、おばあちゃんは何故か私にばかりパパとのことを口にする。
相手にされないで、食事を進めている姿が恨めしい。彼に話しても、はぐみは気にしすぎと一蹴された。
創が言うよりもっと複雑でデリケートな問題なのに、簡単に片付けてしまう。私よりずっと頭が良いくせに意外と楽観的なのだ。深く考えない姿勢は瑞穂さんに似ているのかもしれない。
ハジメちゃんが放心したように私とおばあちゃんの方に視線を投げている。小さな弟の方が創よりも健気に見える。私は一人っ子だから、パパとママしかいない。やっぱり創のことを、ちょっとだけ狡いと思う。
パパの運転する車は吃驚するほど音が無い。
だから自分の立てる音がいちいち気になってしまう。おじいちゃんの家から帰る土曜日は、ママの車で聞き慣れた邦楽を耳にしながらマンションに戻る方が楽だった。でもこういう事は軽々しく言えない。パパは自分が納得するまで決まって尋ねるから、感情の問題に理由をつけるのが苦手な私は口を固く結んでしまう。
静寂が普段より苦手に思えていつもは他愛ない話しなんかを喋り出すけれど、今日はそれもしたくなくて黙っていた。
「はぐみ酔った?」
案の定パパは心配して、ルームミラー越しに私を捉えて尋ねてきた。
「だいじょうぶ」
「そう。酔いそうだったら教えてね」
頷いて返す。それでもパパの視線はこちらに何度も降り注ぐ。景色を眺めて気を紛らわそうかと思案して窓の方を向いた。外の光よりも自分の顔が近くにあって、はっきりと映し出す。自分自身の顔がボヤけて散らばっていく。焦点を会わせないように努めながら、今日一日を何とはなしに振り返っていた。
風邪も引いていないのにマスクばかりしている私には、健康な身体とは裏腹に一丁前に病名がつけられている。身体醜形障害。パパとママしか今のところは知らないと思う。SNSが浸透している時代、この病気はそんなに珍しいものではなかった。いつの頃か私はその病気に掛かっていた。
人の目が溢れている場は心臓がばくばく言っていて、汗が止まらなくなるし、自分を知っている人間が増えていくのもしんどい。頭の中を空っぽにしたいと思う。
人混みが苦手だからほとんど外出できない。だから家に居る。それをしたら、必然的にパパとママとばかり密接に関わらなければいけなくなる。たったの14歳にして自分の世界は窮屈だった。
オートロック式のマンションでパパがボタンを慣れたように押して入り口を開け、エレベーターを待つ。ママの手を繋ぐと握り返してくれた。
コンシェルジュさんやこのマンションに住む人に子供だと思われてもいい。寄り添う相手になりたい。パパの家族の繋がりを濃く見せられた時、ママの孤独を思う。私には分からないことが沢山あって、それを消し去る術は持ってない。ふいに、海というママの名前は誰がつけたのだろうと思った。夜のだだっ広いそれは底の見えない孤独みたいだ。でもママの中には光がある。私はそれを確信していた。
「渚さん」
不動産屋の窓口でパソコンのキーボードを叩いていた彼は、私を見上げ困ったように眉を下げた。
「もうここには来ちゃ駄目って言ったでしょ」
「ママに会ってくれたらもう来ないよ」
何度目かのその台詞を口に出すと、その人は立ち上がって奥の扉の中に入っていく。戻ってくると、頭がキンとするくらいに冷えたオレンジジュースを差し出される。
「君は簡単に言うけれど、僕がどうこうできる事じゃ無いんだよ。はぐみちゃんがここに来たのは偶然で、僕らは別に仲良しじゃない。早く帰りなよ、僕は忙しいんだ」
「一時間もここに居るのにお客さん一人も現れないじゃない」
バチリと視線が合わさったその人の行動に自然と声が上がる。
「私の…」
「大人をからかう君にはあげません」
私に用意された飲み物をその人があっという間に飲んでしまった。おかげでグラスには結露の一つも付いていない。
「それに君の両親だろ。なんで自分から水を差すような真似をするのかな。どっちの味方なわけさ」
「ママ」
「え…」
か細い声を打って、溜まった何かを吐き出すように唇を開ける。
「ママの方に決まってる。パパはいっぱい持ってたのにママまで取ろうとする。欲が深いんだよ。ジャイアンと同じ」
「水沢さんがジャイアンって…」
なぞるように反芻した後、吹き出した渚さんに、ある思いがぽつりと浮かんだ。
「パパに会ったことあるの?」
しまったというような顔をする目の前の大人。私の発言を聞いて笑うのはパパを知っている人だけだ。パパの容姿や振る舞いを見たことがある人間以外は可笑しいという感情を呼び起こしたりしない。
恐らくママのことで渚さんに忠告でもしたのだろう。どこまでも容赦がない。パパの狡猾さは、渚さんみたいな人とはまた違って魅力的だった。そこまでママを想っているパパは素敵だと思う。この感情は、パパを裏切る行為を催促している状況と相反している。自分でも訳が分からなくて今の気候のように不揃いで嫌気が差す。
「五月中旬の気温が高くなるこの時期にマスクをしている私を変に思わないの?」
「思わないよ。はぐみちゃんははぐみちゃんだろ」
この人と喋っていると、パパと結婚しているのに、渚さんに恋をしたママの気持ちがよく分かった。学校をサボって心療内科の診察も行かずに、聞いたこともない駅に降りた先でその人を見つけた。渚さんは頑なに認めないけれど、やっぱりこれは運命とかポエムみたいな恥ずかしさを抱える出来事な気がする。
「平日に女子中学生に相手してもらう30才か…」
「今のは流石に傷ついたぞ」
「渚さん、カウンセラーとかになればいいのに…あなたと喋ってると、自分を支配している悩みなんて吹き飛ぶ。本当だよ。売れない部屋に住む人を待たないで、誰かを救ってよ」
赤くなった手の甲に目線をやりながら口にする。
「駄目だよ僕、口下手だもん」
「だもんとか可愛くない」
あからさまに機嫌を損ねた渚さんに、なんて言い訳しようか、と思い始めていた。
家に帰って、仕事を終えたパパが帰宅するのを待つ間。自分の部屋の机の上に見慣れたノートが置いてある。手に取って、最近のページまで捲った。
ママとの繋がりを求めて私が誘った。ママの字はなんというかママに似て痩せている。線に囲まれた一行のマスに綺麗に収まったそれを眺め、読み始めた。
はぐみへ、ママから。
今日はとても気分が良いです。律くんとはぐみが居ないリビングでこのノートと向き合う時間は、二人のことを愛しく感じます。早く二人に会いたい。そんな事を思いながら、洗濯物が出来上がるのを待っています。
もうすぐ干せる服たちが、最近はカラッと乾いてくれるから気持ちが良いです。
心が暖かくて誰かに優しくされているみたいです。そんな時は料理も上手く作れる気がします。今日ははぐみと律くんの好きなものを作ろうと思います。
読み終わる頃には口角が上がっていた。ママは私をとても大切に扱ってくれる。やっぱりこの交換ノートをしようと持ち掛けて良かったと思う。嬉しいことしか貰えない。
新しいページに返事を書き連ねていく。渚さんと会ったことは言わない。紙面には、まだ一度も出していない名前。そのことを憂いては胸の奥に膿が溜まっていく。じゅくじゅくと腫れて、ママのことをまた傷つけているみたいで、私はボールペンの先を出したまま手の甲を刺した。ぐりぐりと痛みを引き寄せる分だけ力を入れる。インクで上書きしないと消えちゃう。苦しめる自分を誰よりも苦しめなきゃ。強迫観念は強く痛んで消えない。簡単に消せない方がずっと良い。
◇
今日も学校を早退した。私の不真面目になった素行に仲が良かった子達は段々と離れて行っている。それで別に良かった。
ダサいと感じる制服を身に付けている方が身体は随分と軽かった。
中学に入る前に受験をした。簡単なテストと面接。特別な勉強もしなかったのに合格した。おばあちゃんの薦めで難なく入るつもりだった学校を、私は最後の最後で入学することを拒否した。
ママと同じになりたい。入る筈だった中学校をはねてでも叶えたかった。おばあちゃんに嫌われても良いと思った。
結果的に私におばあちゃんは何も言わなかった。でも全く望んでないやり方で話が収束した。おばあちゃんはママの方に強く気持ちが移った。ママに酷く当たったおばあちゃんに私は何も言えなかった。ママの育ちや躾方をなじって自分との線を色濃く引き直しておばあちゃんの溜飲は下がった。それなら、ママの虐め抜かれた気持ちは何処に行くのだろう。ただ一つどうしようもない私が理解できたのは、ママを本当の意味で宥めたり痛んだ気持ちを分かち合うことが、パパには出来ないということだった。
「はぐみ」
名前を呼ばれ回り込まれた人物を目にして、肩が大袈裟に揺れる。こちらをじっと見つめるパパに何て答えたらよいのか分からない。
「学校は?」
「あ、病院の日かと思って、勘違いだったのあとから気が付いて…」
頭がくらくらするくらい体温は高いのに、唇が乾いていて喋りにくい。マスク越しにボソボソと言い訳する自分は怪しくてたまらない。
「病院は僕か海が連れて行くって決まってるよね」
長身のパパに前に立たれると迫られているみたいで居心地が悪い。実際に両親に黙って二人の仲を切り裂こうとしているのだから、罰が悪いのは当たり前だ。
「学校は?早退したの?」
首を縦に振ると、パパは私の手を取ってそれからタクシーを停めた。運転手さんに告げた行き先を聞いて、家には帰らないのだと理解した。
パパの親友がやっているお店はパパが仕事で作家さんと打ち合わせをする際に頻繁に使っている。カウンター席なら良いけれど、多分パパの顔を見れば颯さんは奥の個室に当然のように案内するのだろう。
今から気持ちが重たい。なんて言い訳しよう。パパはスーツをきちんと着てジャケットも羽織っているのに、肌が覗く首元は涼しそうだ。
個室のソファー席に腰を落とした。差し向かいのパパの視線に縮こまる胸。
「学校でイヤなことがあったりしたの?誰かに何かを言われてたりする?」
その真面目腐った台詞に気持ちが逆撫でされていく。学校が授業の中、娘が外をふらふらと歩いていたのだから。そのことを注意すればいい。わざわざこの場所に連れてきて、怒りよりも宥める聞き方に苛立ちが湧く。もっと怒ったりすればいい。そしたら私も言い返せる。伝えられる。
私がマスクをし始めなきゃならなくなったのは、おばあちゃんの言葉があったから。突き詰めて言えばパパのせいなのに。
「はぐみが言いたくないのなら無理に問い詰めたりしない。パパに言いづらかったら、ママに言えばいい。僕らはいつだってはぐみの味方だから…」
この人のことは大好きだけど、とても傷つけてやりたいと思った。
「パパに聞きたいことあって、」
「…なに?」
「ママとまだしてるの?」
「してるって?」
「セックス」
娘の口からそんな言葉が出てくるなんて思いもしていない。パパは私を視線から外さないようにしながら、別のことに気にとられている様に心が追い付いていない。
「答えて」
「それが今日はぐみが早退した理由に繋がるの?」
「うん。だから答えてよ」
嘘を言った。だけど、パパが本気で答えてくれないと思っていたくらいには、まだ気持ち的に余裕だったのかもしれない。
「してる」
確かに聞こえた言葉に冷静さを掻き乱される。
「どっちから誘うの」
「僕」
「ママは嫌がったりしないの」
「しないよ」
「じゃあ、パパに抱かれながら別の人を思ってるんじゃない」
言い切る前に頬を強く張られた。痛みがじんじんと喚くようにやって来る。
ごめんなさい、そう告げると、パパはおずおずと私の方に手を伸ばして体ごと包み込んだ。
痩せ型のママの体は自分を保つのが苦手らしく、ママは季節の変わり目に寝込むことが多かった。イラストが得意なママの描いたキャラクターをポーチやハンドバッグにプリントして売り出すと直ぐに完売した。パパは、絵が人より少し上手いだけだったママが出来ることを見つけて提案し、ハンドメイドの人気作家さんにしてしまった。
家事と娘の世話と夫のこと。それに加えて商品の受注と制作と梱包。ママの毎日は慌ただしかった。
体調を崩してしんどそうな咳を吐くママの背中をパパは柔い力で擦ってあげていた。その事をパパの腕の中でふいに思い出す。誰がみてもパパはママのことを愛している。それが娘の自分には一番に分かるのだ。
深夜、廊下を歩いていた足を小さな音が止めた。その音がする方向はママの部屋に続いていた。こんな深い時間に一体ママは何をしているのだろう。
気になって扉を開ける。机の電気スタンドがぽつんと灯っただけの部屋に高い影が張り付いていた。
「何してるの、パパ」
その時、影の主が動揺したのか私の目線の先には無かった新しい白い何かが映り込んだ。あれは私とママの交換ノートじゃないか。どうして勝手に。パパにママとの繋がりを酷く汚されたみたいで、気が付いたら走り出してそのノートを奪い返していた。乱暴に掴んだそれは私が知っているノートとは似てない代物で疑問が膨らんでいく。何も口にしないパパと机の上に置かれた小さな鍵。開けられたままの引き出し。
訳も分からず指先でノートを広げた。目の中に入って来た朝比奈くんという文字。頭で理解するよりも、鼓動がうるさくて、暫く字を眺めるだけだった。やっと全てを知り得た時、徒労感をひたすら感じた。
あなたのことが沢山書いてあった。知らない貴方がママの全てになった日。丁寧に大事に飛び込んでくる言葉の数々。時々走り書きしたような部分に、上擦った気持ちが読める。
パパがこれを持っていた理由も読み終えた今なら分かる。パパはずっと恐れている。この1ページだけ埋められたノートが更新される日を。ありとあらゆる軌跡が抑えられなくなる瞬間を。
もしかしたら背中を撫でられたいのは、ママじゃなくてパパの方なんじゃないか。近くにある高い背にそう思った。
この1ページは確かに強固で不安を増幅するには充分な印象を受けるだろう。
けれど、反対にパパの心配は杞憂で終わると思った。このノートは一枚だけの手紙で完結している。
朝、リビングに顔を出すと向けられた両親の笑顔。挨拶をし返して目を細める。
白い光が差し込んだ弛緩した朝の景色。パパとママと、自分という空間。三人で暮らすということ。取り繕ったでたらめな体裁が剥がされて野晒しになっていく。
駄目だ、わたし、この生活を手放したくない。ちゃんと両親に愛された子で居続けたい。
「ごめん、ママ。私の手にあるママと同じところのホクロ、消えちゃいそうなんだ。ボールペンで何度も何度も付け加えるのに最後には消えちゃうの…無くなっちゃってもいいかな…わたし…っ、ママに似てなくていいかな…っ」
怖くて、ママの方をもう一生見れない気がした。口からこぼれ落ちる言葉と一緒に涙が止まらなくなっていた。垂れ下がった腕の先。親指と人差し指の間の付け根のあたり。赤くなった私の守ろうとした弱さがそこに沈んでいる。
あの日、物音に気付いてママの部屋に入ったわけじゃない。交換ノートに渚さんの居場所を書こうとして、私はわざと夜中に自分の部屋を抜け出したのだ。そのせいでパパの臆病さを知ることになったけれど、パパが居ないママの部屋に入ったとしても、本当のことは書けなかったと思う。
許してくれると思った。ママが私じゃなくて渚さんを捨てた理由が渚さんに再会してから分かったような気がする。あの人は自分が居なくても平気。弱いところも痛みでさえも悟らせない強さが彼にはあった。ママはそれが怖かったんだと思う。自分が居なくても生きていけるあの人を見つめることが、とても恐くてたまらなかったのだと思う。
ごめんなさい渚さん。今はただ、ママをあなたに会わせたくないと思うのです。狡くて醜くてごめんなさい。あの時、小さな私に優しくしてくれたお兄さんは、ママの朝比奈くんで、わたしの初恋でした。
終