まるしかくさんかく 僕らの心臓(1/8)


思考を手放す間の瞼が重だるい時間、寝室の扉が開くのが分かった。こちらに向かってくるその気配を感じて、ピリピリとした緊張が襲う。布団を捲って布が擦れる音。

「海、起きてる?」

つむじ辺りに息がかかるほどの至近距離だ。黙って身じろぎ一つせずに、ただ耳をそばだてていた。壁に向いた私の背中にピタリと自分の身体を張り付かせて、真ん中で結んだ手の甲に、長い指先を重ねてくる。
少しの間、重ね合わせた指同士を撫でるように触れた後、小さな寝息が聞こえてきた。


もし、起きている事が分かるような動作を、呼び掛けられた時にしていたとしたら、彼は私を抱いたのだろうか。答えは律くんにしか知り得ないのだけれど、そうはならなかったことが、今は少なくとも安心した。

律くんとしたい、と初めて言葉にした昨日の今日だ。彼が意味を持たずに、自分が寝ている部屋に来るわけなど無かった。その事を深く探らないまま、否、無理やり考えないようにしながら、目を閉じる。



上がり框の上に立って、靴を履き終えた律くんに、持っていた鞄を手渡す。
家を出る間際、いつものように冷たい唇が触れた。いってきます、と呟いて扉が閉まる。その人は視界に映らなくなって、白い玄関の様相だけが覗く。

どうしてそう思ったのか、切り揃えられた前髪の下のアーモンド型の大きな瞳が、一瞬だけ、とても恐ろしく感じた。これまでも律くんは、自分に対して、蜂蜜のようにどろどろと甘すぎる視線を浴びせていただろうか。
初めて貰ったような気分に陥るのに、本当は随分前から近くにあった気もした。

朝食の食器の後片付けと掃除をして、外出する準備をしよう。気を紛らわす術を家事に切り替えて、踵を返す。


制服の胸のあたりに付けられた、朝比奈というネームプレートを再び目にするようになって、数日が経った。出張や家を開ける日以外は朝食や朝の準備を手伝って、仕事に行く律くんを玄関まで送る。それから、家の事を早々と済ませて、電車に乗った。


父親が倒れて以来、大学を休学し、店長をしていた父親の代わりを彼はしているらしい。

朝比奈さん本人から聞かずして、ここまでの情報を、吉野さんがほとんど独り言みたいに話すので、一方的に知ってしまっている。
それに、少し上か自分と変わらない歳だと思っていた彼は、三つも年下だった。

自分のシフトの時間帯は、フリーターの吉野さんと、大学生の三村くんと、それからこのコンビニで実質店長の朝比奈さん。旦那が帰るまでの時間、この三人の誰かと一緒になる。私は週に三日間だけここで働くようになっていた。

バスで一方的に彼を見つけて声を掛けた日、そのまま二人でシフトを調整しに行った。

それ以来、彼と特別なにかを喋ったことは無い。

コンビニでレジ打ちをした経験はあっても、アルバイトをしていたのは何年か前で、最初、まるで上手く出来なかった。
自分がレジ前に立っている間にお客さんが多く並ぶと、それだけで頭が一杯になって指先がもたついた。そんな時、朝比奈さんは直ぐにやって来ては、助けてくれた。

普段、律くんやお義母さんくらいしか言葉を交わす相手が居ないと、接客業の大変さを随所に知った。
沢山の人が訪れるコンビニでは、積み重なった口下手さは幾度も現れ、しどろもどろになる自分の代わりに、受け答えをしてくれた。


彼の親切心に触れる度に、自身の不甲斐なさを痛感して恥ずかしい。それと同じように、一方では、胸がたちまち暖かくなった。

朝比奈さんが接客中に笑いかける時、くしゃっと顔のパーツが真ん中に寄る。それを目撃すると、三つ年が離れている事が分かるような気がした。初めて会った日、私はすっぴんでずぶ濡れで、悲しみで膨らんだ子供だった。そんな自分だったから、彼が余計に大人に感じたのだろうと今になって思う。
目鼻立ちがはっきりとした顔が一瞬にして綻ぶので、普段は言葉少ない彼とのバランスを見失いかけそうになる。

今日も午後からシフトが入っている。
家で過ごす間、募った閉塞感の行方は、慌ただしく動き回ったり、誰かと言葉を交わす内に見えなくなっていく。春の空気は吸い込んだ瞬間、自分の内蔵さえも、瞬く間に綺麗にしてくれたのだろうか。こんなことになるなんて、想像もしていなかった。

冷蔵庫に入ってある白い箱の存在も、度々夜に出かけていく夫にも、気を塞いだりしない。
お義母さんの話も、まともに受け取らなくなった。
自分の生き方を否定された気持ちも暫く味わっていない。







「成田さん、ちょっといいですか?」

律くんの姓でも無い。血の繋がっていない父のとも違う。薄暗い母の部屋で憎いと書かれていた、会ったこともないその人の名字を、朝比奈さんに呼ばれる度に、私はこんな自分を少しずつ好きになっていく。



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