短編集『ほどけた靴紐を結んで』
[最終章『ほどけた靴紐を結んで』](1/9)

『ほどけた靴紐を結んで』


春、うららかな陽の光……。

“ホー、ホケキョ!”

ウグイスのさえずりが響いた。


ある病院施設の一室。

街の外科医を勤めていた山崎 武志は、医者の不養生で49歳で胃癌が見つかり、気付いた時には身体中に転移が認められ、ステージはIVまで到達していた。

本当はホスピスにて安らかにその人生を終えるはずだったのだが、身体中の癌細胞は施設への移動さえも許さなかった。

病室に小さな家具をいれ、急造のホスピスにさせてもらった。


彼の長年の相棒であり、愛妻でもある洋子は笑顔で

「お客さん、ウイスキーの水割りです。お待たせしました」

と言い、ウイスキーをミネラルウォーターで割り、氷を浮かせたグラスを手渡した。

「ああ、ありがとう。どう?店員さんも飲まない?」

とこちらも笑った。

彼女は少し考え

「お客さん、いただくわ。でも酔わせて変なことはしないでね」

自分の水割りを作りながら、笑う。

「ぶぉっほ」

武志は豪快に笑う。

洋子は彼の腰かけているベッドに向かい、彼の真横に腰掛けた。

武志の左手が洋子の背中に回った。

「乾杯」

「ええ。乾杯」

グラスを合わせ瞳を見つめあわせる。

一口飲む。

薄いアルコールが喉元を通り過ぎていった。

強度の痛み止めの薬のため、味はしなかったが、それでも武志は満足だった。


彼は妻の洋子に、たいへん申し訳ない思いでいっぱいだった。

洋子のほうもそれは心得ていて、そのため彼の前では出来る限り笑顔で接していた。

しかし彼と今までの楽しい思い出を語っていると、

「ちょっとおトイレに……」

と言って病室を出て廊下を歩いてレストルームに行く途中で涙が止まらなくなり、ひざまついて声を殺して泣いた。

「う、ううう……!」

看護士のひとりがそれに気付いて事情を察し、しゃがみこんで彼女の身体を抱いて優しく背中を叩いた。

「ううぅ…………」


それから2週間後、山崎武志は眠るように旅立っていった。

担当医に彼の死を告げられ、洋子は大きな声を立てて泣きいった。

しかし彼女はしばらくして立ち上がり、担当医に頭を下げ、お礼を言った。


武志は安心して冥土へ旅立っていった。



“ホー、ホケキョ!”

1年後、今は洋子も穏やかな気持ちで、春の響きを受け入れることが出来た。

武志と洋子の孫が相次いで産まれた。


“先輩、アタシたちの孫が一気に二人も生まれましたよ。先輩と、同じように豪快な子だといいですよね”



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