夢を見ないネズミ
[白い便箋](1/1)
あの人の亡骸を見る前に渡されたのは、一枚の真っ白な便箋だった。

「一緒に幸せになりましょう。」

自らの命を断った人の言葉とは思えないその一言だけが、便箋の中央に書かれていた。読んだとき、便箋の白い背景がなぜか白無垢に見えた。筆使いは、結婚式の緊張や不安、人生の新たな一歩を踏み出す希望に満ちた感情が入り乱れている。ラブレターのように、読む前に内容を察してワクワクと文字の羅列を追ってしまいたくなる感覚。しかし感覚とは裏腹に、ふと目を上げれば冷たく色白く硬直した身体によって、否応なしに現実に引き戻される。その便箋は自らの命を断った決断の表れ、遺言になる。何が起きているのかわからなかった。ただ言えるのは、今から自らの生を手放す人の文字には見えなかった。その筆跡と言葉に、死という事実さえも疑ってしまうほど翻弄される。
身体に触れてしまえば、目の前にある身体が本当にあるということを認めてしまいそうで触ることができなかった。今にも動き出しそうな身体は、ただ小さく呼吸し深い眠りについているだけで、「死」を理解することを拒ませる。身体が消失され、その姿を二度と見ることができなくなろうとも、ただ旅をし、遠い場所で楽しく生きていると想像してしまう。
涙は出なかった。笑顔だった。引きつった笑いなのか、それとあの人の最後の表情を真似ているのか。

何一つお互いに不満はなかった。不満がないといっても喧嘩がないわけではない。ただ喧嘩が互いを理解し深める手段になっていることを了承していたし、なんでも言い合える関係で、もちろん浮気もしていない。理想の夫婦であったと自信を持って断言できる。死を選んだ理由を考えれば考える程、楽しかった幸せだった時間を思い出し余計に困惑する。理由は到底理解できないけれど、どうしても死を望んでいたのなら一人で逝くんじゃなくて、一緒に逝かせて欲しい。一人先に旅立ち、残される人の気持ちを考えてほしい。相談しなかったことや共に歩ませてくれなかったことにも困惑される。深く愛していたがゆえの深い悲しみと怒り。しかしその感情をぶつける相手はこの世にいないという虚無感。いっそ自分も死を選ぼうかと考えるが、それこそ自分の目的のために自分勝手に命を断ったあの人の死を肯定してしまうことになる。今まで通りに辛いことや大変なことがあっても、人生を謳歌し、死が向こうからやってきたとき、ふと満足いく人生だったと思うことが、あの人の死を否定することに繋がる。そう思うことでしか、自分を保つことができない。それとも死を恐れ無意識的に死から逃れるための算段を立てているのかもしれない。ただ今はこうして自分の感情を文字にするという、反復行為しかできそうにない。




「ピンポーン」

突然玄関のチャイムがなった。郵便物が届く予定などないし、今は誰とも関わり合いたい気分ではなかったが重い腰を上げて、気怠く歩きながら玄関の扉に向かい、そっと冷たいドアノブに手をかけ、扉を開けた。するとそこには、20代後半ぐらいの見ず知らずの人が立っていた。顔立ちは活力をひしひしと感じ、シワ1つない若々しい肌。くっきりと大きな瞳をしているが、表情は自分が最近身内に不幸があったことをすでに知り、同情とは思えない、その人自身に不幸があったのかと思わされるほどの悲しみに満ちていた。服装もシワひとつない真っ黒なスーツに身を包み、整えられた身なりからは私に対しての敬意を感じた。
私が呆気にとられていた数秒間、男は静かに待ち続け理解する間を与えてくれた。そしてゆっくりと、口を開き重い口調で言葉を放った。

「あなたの最愛の人がこの世を去った理由をお伝えしにまいりました。」

                      
     



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