白銀の執事
[反乱編](1/1)
 プロローグ

 爽やかな夜風が波のように荒く吹き込み、よどんだ部屋の空気がすがすがしく交りあう。
 彼はゆっくり瞼を持ち上げる。
 目線の先には虚無だけが拡がっており、本来そこに在るはずのシルク製の白天蓋は彼の瞳には映らない。
 上体を起こし、絹の掛け布団を払うとベッドボードの左端に掛けてある懐中時計を手に取り顔を覗き込む。
 午前零時二十四分。
 変な時間に起きてしまったな、とボリボリと頭を掻きながら寝ぼすけ脳を働かせた。まだ予定の起床時間より大幅に早い。
 彼は公爵家の跡取り息子らしくない口を大きく開けた品性のない欠伸をすると、横になった。一緒に懐中時計も直そうとしたが届かない。
 彼はしばし不愉快そうな顔つきをしながら、限界まで腕を伸ばし手探りでベッドボードのフックを探す。

 ふと冷気がパジャマから露出した二の腕の白い肌に優しく触れ、鳥肌が立った。
 彼は声に出さず驚いた。少しの間、頭を悩ませたが理由が見当たらなかった。
 寝室の入り口の扉と窓の施錠は執事や使用人に任せず自己管理している。彼は生真面目な性格のおかげか、今まで一度も施錠を忘れたことはない。つまりこの寝室は鼠一匹さえ入室を許容しない密室のはずなのだが……。
 彼は懐中時計をシーツに置くと、恐る恐る首だけゆっくりと右側に振った。

 窓ごしには、異様に大きな半月。
 否。今日は満月のはずだ。彼はほんの二時間前まで屋敷の屋上で趣味の天体観測をしていたので、その異様な光景に眉間に皺を寄せる。
 だが、それは単なる寝起き特有の誤解だった。
 暗闇の中、見るも妖しげな少年の髪が、月の明かりに照らされ、ぼんやりと発光している。
 しかし彼は別段驚きもしないし、恐怖で怯えることもなく至極当然のように平穏で冷静だった。
 人は人を殺すのに躊躇う。その点熟練の暗殺者は例外かもしれないが、小心者の暗殺者は例外ではない。手間取る仕事人に対し逆上するより沈着のほうが何十倍も狼狽を憶える。
 それ故に彼は執事や使用人が寝所に到着するまでの時間稼ぎのつもりで平然を装っていた。本音を言えば今すぐにでも瞳に大粒の涙を浮かべ泣き叫びたい。

 彼は上半身を起こすと、臀部を軸に右に45度回転させ窓側の床に足を着けた。
 彼は黙っていようか悶えた。彼が覚醒して概ね5分経過しているが、二階の寝室の外廊下には執事たちの気配はない。
 彼は口をつぐむのは得策ではないと決めつけると、相手の気が触れないように語り掛けることにした。
 寝起きの為にやっと発音するような掠れ声で言ったが、

「お…………」

 突如絶句した。
 目が段々と部屋全体を包む暗黒に慣れ、彼は少年の正体を悟った。
 シワ一つない白のウイングカラーシャツの上に、濃紺のフロックコートを羽織っている。黒パンツの裾は革靴の甲に当たらず、全くたるみがない。顔は九尾を形どった仮面に隠されており、見えるのは夜風に靡せるブロンズの髪だけだ。
 彼はその存在について存知していた。いや、だからこそ彼は普段暴力反対をポリシーとして掲げているのにも関わらず攻撃的な行動を取って出た。

 彼は息を激しく荒げながら、枕の下に隠していた護身用のサバイバルナイフを素早く取り出し右手に力強く握る。
 彼は自身が狼狽えていることを十二分なほど理解していた。しかしあの姿を目で捉えた以上平穏を保つことなど彼には到底出来なかった。

「うわああああ!!」

 絶叫とともに彼はナイフを右手に握り締め少年に向かって斬り掛かった。
 少年は襲い掛かってきた男に向けて逆に間合いを詰め、握り込んでいた手を開き手刀の形に変えて、ナイフを持つ腕に打ち込んだ。

 少年の手刀は、何の抵抗も受けず彼の腕を斬り落とした。

「うぎゃっ」

 声が悲鳴に変わる前に、少年の左拳が彼の鳩尾にめり込んだ。
 右腕の断面から一際勢い良く鮮血が溢れ、少年の服を汚す。
 それが彼の人生の終止符だった。
 彼は糸の切れた操り人形のように床にひれ伏した。


「…………」

 少年は無言のまま哀れな死体をじっと見つめていた。それは死者に対する追悼の意味だったのだろうか、それとも暗殺者としての仕事完了の確認なのかは、どちらにせよ仮面の上からでは分からない。
 少年の黒革靴のつま先に鮮血に染まった紅の絨毯が滲んできた時だった。

『旦那様!? 大丈夫ですか!? 開けますよ!!』

 突然、寝室の扉の向こう側から怒鳴るような掛け声が響いた。壊れそうな勢いで扉を叩きつつも、ガチャガチャと扉の錠を万能鍵で開けようとしている。
 少年は視線を死体から逸らすと、眉を顰めてチェッと舌打ちをした。
 黒い外套を翻し、桟に右足を乗せ窓枠を左右両手で掴むと少年は力強く桟を蹴った。

『旦那サマァァァァ────!!』

 と同時に扉の錠の解除に成功した執事たちは雪崩れ込むように寝室に入った。
 だが、当然既に少年の姿はなく、ただそこには五体投地をした右肘から下がない死体が転がっているだけだった……。






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