夜もすがら キス 1 / 1





スタート:よめ


お付き合いという期間に入って何度目かのデート。この日のために準備したコーラルピンクの口紅は、悲しい話意味を成さなかった。毎日リップクリームでケアし、入念にリップブラシで乗せた口紅は唇に合っていないのか口の端と心を少しカサつかせた。

誰にでも似合うだとか、大人っぽく、だとか
いろんな売り文句を見たコーラルピンク。
彼は何か言うだろうかと考えながら選んだこの口紅。鏡の前、カサついた唇の端を人差し指でそっと撫でる。
「そうね、悪くない。悪くないはずなのよ。」
心の声がそっとこぼれた。

何度も出かける前に練習した笑顔も、敢えて新しいマスカラでなく慣れたマスカラを選んだのも、そして今回のために選んだコーラルピンクの口紅も。
すべて「悪くない」はずなのに彼は見向きもしなかった。
私も妙齢の女性だ。そういうことの一つや二つ、好きな相手ならしたくなって当然だと思うのに。

そうなると、問題は化粧などというものではないのでは、と考えてしまう。
年を重ねるごとに慎重になる。そして臆病になる。
彼が私を本当に好きだったのなら、彼も男、そういった気持ちになったりしないだろうか。
彼はちゃんと私を見てくれているのだろうか。

慎重に、臆病になっていく私の唯一武装できる手段が化粧だった。素を見せているつもりなのに、いつの間にか化粧という鎧を着て接していることにクレンジング後の入浴で気づいてしまった。また一つ臆病の扉を開けた瞬間だった。
ザバリと浴槽から抜け出し、浴室の鏡を盗み見る。

昔から気になっていたほくろの多さ。そうね、これはマイナスポイントにはならない、はず。シミなんかはそう目立たない。鏡の中で、自分と目があった。彼のこと、どう思ってるの。彼は私のどこが好きなの。小さい頃からの癖、自問自答が始まってしまう。

瞳と瞳がぶつかった。湯船に浸かったからか、それとも自問自答の答えに見て見ぬ振りがしたかったからなのか、瞳は少し潤んでいた。
「悪くない、悪くないんだってば」と自分を慰め、答えに目を向けるのを後回しにしていく。余計惨めにしていくだけだった。

ふと見ると、チカチカと視界の端に光が映る。ぼんやりとした頭で考える。彼であればいい。彼でなければいい。考える内、体は自然と携帯をつかみ、その中身を見ようとする。と、同時に携帯に着信が来た。胸がドキリと音をたてる。照らされていたのは、彼の名前だった。

無視してしまおうかと思ったけれどいつもの条件反射で着信を取った。
「あー、もしもし?」彼の歯切れの悪い言い方に嫌な予感が頭の中を過ぎた。「も、しもし?」つい私も歯切れが悪くなる。
「あのさ、なんか悩んでる、?」ーー彼が今最も触れて欲しくない話題を投げてきた。

「いや、あのさ、ちょっと調子悪そうって言うか...俺の勘違いかな」彼の声が頭に響く。「あのね、その...」さっきまで悩んでいたことを簡単に口に出せるほど、私は素直ではない。「ゆっくりでいいよ」いつもより少し低く感じる彼の声は落ち着く響きをしていた。

素直じゃない私は、何度も「大丈夫だよ」と言う彼に「あの」だの「その」だのしか言えなくてなんだか情けなかった。
彼は今も待っている。あなたの問いに答える私を。
「…キス」やっと発せた声は酷くか細かった。「してくれないじゃない…」次もか細かった。

「へ?」彼の間の抜けた声が聞こえた。馬鹿だと思われただろうか。この女は何を言っているのだろうかと。それでも私の口は止まることを知らなかった。「私、待ってたの、だって、だって、貴方が好きだから」気づくと答えは出ていた。そうか、私はちゃんと彼のことが好きだ。

「そんなことで悩んでるなんて思わなかった」「そんなことじゃない!」私の口は止まらなかった。「私、そんなに魅力、ない?」グズグズと鼻を鳴らしながら問う私は本当に不細工だし滑稽だ。けれど好きな彼にこんな恥ずかしいワガママを言えて心は少しスッキリしていた。

「ははっ、」次に聞こえてきたのは彼の笑い声だった。「な、に、笑ってんの」こっちはこんなに必死なのに、貴方のことでいっぱいなのに。「ごめん、でも」彼は続けて言う。「君のそんなに必死な声、初めて聞いた。」「...なにそれ。」嬉しそうな声に涙が止まった。

「大切にしたかったって言ったら、笑う?」彼はまだ嬉しそうに言う。「いい歳こいて、久しぶりにできた彼女を大切にしたかったんだ」ーーああ、今すぐ彼を抱き締めたい。こんなに嬉しいことはない。けれど。
「私はキスしてくれた方が嬉しいな」「はは、分かったよ」

「なあ、」後ろで小さく音がする。「なあに?」何の音だろう、私は耳を澄ます。「今からって言ったら、怒る?」駅の近く、それだけの理由で決めた今の家。小さく鳴る電車の走行音が電話口と、外と、シンクロしている。ーーピンポーン、私はすっぴんも気にせずドアを開けた。

ドアを開け、彼の顔をまじまじと見た。たれ目気味の目、高くない鼻、いつも上がっている口角。
「おいで」そう彼は言って腕を広げた。私はただただ嬉しくて彼の胸に飛び込んでみる。「すき、すき、」そう言いながら彼の肩の匂いを嗅ぐ。甘い柔軟剤の香りがした。

「本当は、少し、君がわからなくて。」彼の鼓動が少し早いのがわかる。「いつも、完璧のような、隙が無いっていうか。」ポツリポツリと言葉を落としていく彼。「でも、違った。安心したよ。」うん、とか細く答えた私に彼は顔を向けた。「改めて、キス、してもいいですか?」

「ふふ、よろしくお願いします」多分私は今1番良い笑顔をしていると思う。
彼の首に腕を回し、瞼を下ろした。精一杯のおねだりで唇を尖らせるのも忘れない。ふにっと少しカサついた彼の唇が私の唇に落ちる。やっとだ、やっと叶った。

「ふふ」緩みが止まらない私の頬をぷにっと掴み、「にやけてる」と彼も笑った。大きかった悩みが終わった後はすごくちっぽけで、目の前の彼を見てただただ幸せだなあ、ともう一度笑って見せた。「その顔」「なに?」「好き」こうして彼は私を離してくれない。彼はずるい。

そんなずるいところも好きだ。
私は「次のデートじゃ、ちゃんとキスしてね?」なんて言いながらぷにっと彼の頬を摘み返した。彼は笑って頷いた。「悩みができたらちゃんと話そうね」と伝えると、「もちろん」なんて彼は得意気に笑って言うものだから、私はまた笑った。幸せだ。

その後彼を駅まで送り、私は家路についた。幸せを噛み締めながら歩くとそれは早く家につく。「ただいま」彼と会った後だから一人は寂しいけれど。置いてあるコーラルピンクの口紅をそっと手に取る。「ふふ、結局使わなかった。もう大丈夫ね。」私はやっと鏡に笑って見せたのだった。








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