愛してる。
[愛してる。](1/1)
君を裏切ったりしないと、貴方は言ったね。でも、私の眼の前に広がる光景は何なのでしょう。幸せそうに、私の知らない女の人と手を繋いで、笑い合って、会話しているこの光景は。
私と、あの2人以外が真っ黒に塗り潰されたような錯覚に陥る。それくらいショックを受けているのだなと、どこか他人事のように感じている自分がいた。いや、ダメージが大き過ぎて、壊れないようにと心がストッパーを掛けているのかもしれない。
……いや、違う。頭のどこかで、彼が心移りをしたと理解していたから、冷静になれるんだろう。
最近になって、急に増えた会社の残業、飲み会、出張。彼の働きがやっと功を成したのだと思っていた。
時折、スーツから仄かに香る女性用の香水。彼の上司が付けているのだろうと思っていた。
少しずつ引き下ろされていく貯金。出張や飲み会で必要な出費なんだろうと思っていた。
違う、違う。全て違う。
残業だと、飲み会だと、出張だと言っていたのは、目の前の女に会う為の嘘。
スーツから香水の匂いがするのは、あの女の家に行ったから。
数万円単位で貯金が下ろされているのは、アイツに貢ぐ為。
全部、全部、分かっていた。分かっていたけれど、まだ事実を受け止められなくて、受け入れたくなくて、ずっと目を背けていた。いつか、またあの笑顔を向けてくれる筈。抱き締めてくれる筈。キスをしてくれる筈。そう思って、メイクも勉強して上手くなった。ダイエットもした。高い美容道具も買った。なのに。なのに、なのになのになのに。
彼の笑顔は、あの女狐に向けられている。
どうして、何でと、何度自分に問い掛けても、答えは見つからない。どの道分かったところで、彼の心はもう戻らないことも、分かっている。
そして、今にも壊れそうな私の心を直す方法も、分かっている。
気付けば、肩から提げていた愛用の鞄から、私は鋼色を取り出していた。毎日毎日、彼の為に美味しい料理を作ろうと使っていた物。何年も使っているせいか、手にピッタリと収まる。
その瞬間、周りの空気が一気に騒がしくなったけれど、気にならない。私の目には、彼しか写らないもの。
走って、走って、走って。眼の前には大好きで愛しくて堪らない彼の背中。鋼色を握る両手から伝わる衝撃。じわじわと浸食する赤。真横から聞こえる耳障りな悲鳴。うるさい。邪魔しないで。彼との最期の大事な時なんだから。
包丁を刺して、抜いて、刺して、刺して、刺して。気付けば私は、ピクリとも動かない彼に馬乗りになって、彼の胸を刺し続けていた。
返り血が私の手を、顔を、服を、赤く染めていた。第三者から見ればおぞましい光景でも、私にとっては、彼を全身で感じているような、幸福感さえあった。
最早、光を宿すことは無い濁った瞳に目を向ける。今まで、あの女を見つめていた時を取り戻すかのように、今度はしっかりと両頬を手で包み込んでこちらを向かせる。ああ、やっと見つめ合えることが出来た。
「愛してるわ」
そう短く愛を囁いて、唇を重ねる。途端に鉄の味が口の中に広がったが、それでも良かった。他の誰でも無い私を見て、彼とキスが出来たのだから。
遠くの方から微かにサイレンの音が聞こえる。誰かが警察に通報したのか。
…このまま警察に捕まったら、私はどうなるのだろう。間違いなく刑務所に入ることにはなる。その後は…死刑だろうか。執行日か来る日まで、牢獄の中で他の囚人達と暮らし、見ず知らずの誰かに命の灯火を消されるのだろうか。
ーー嫌だ。そんなの、嫌だ。 最期に彼と会えずに死ぬなんて、 絶対に嫌だ。でも、このままでは…
鮮血が溢れ出ている胸を見下ろして、はたと気付いた。思わず口元が緩む。
私はゆっくりと包丁を引き抜き、ひたりと自分の喉に当てた。
今ここで私も死ねば、最期まで彼と一緒に居たことになるじゃない。
一思いに刃を下に滑らせば、鋭い痛みと共に噴き出す赤色。 前のめりに倒れる身体は、恋人と重なり合った。
薄れゆく意識の中、鉄の匂いに混じって大好きな彼の匂いがふわりと香った。私は人生で最高の幸せを感じながら、言葉を紡ぐ。
「………」
声にもならない掠れた吐息を吐き出すと同時に、彼女の瞳から光が消え去った。
彼女が最期に何を呟いたのか、知る人物は1人もいない。
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